ある友人から先日何本かの映画を勧められた。
その中の一本が、Facebookの創設とその後を描いた2010年公開の『ソーシャル・ネットワーク』だ。
私はデヴィッド・フィンチャー監督の作品は結構好きだ。
特に好きなのが2014年公開の『ゴーン・ガール』だが、私はフィンチャー監督が描く「複雑な現代社会の中で生きる人間」に魅了されて、多くの作品を楽しんで観てきた。
同様の理由で『ファイトクラブ』や『セブン』なども大好きだ。
今作のことは以前から知っていたが、私がこれまで「伝記映画」というジャンルを敬遠していたからか、今作を観る気にはなれなかった。
なんというか、ある人物の過去を美化して事実を捻じ曲げる傾向にあるので、あまり好きじゃなかったジャンルなのかもしれない。
しかし、友達から今作を勧めてもらったおかげで、その考えが少し変わった気がする。
今回は、私が『ソーシャル・ネットワーク』で見つけたメッセージやテーマを考察していき、自分の中の考えを改める場として当ブログを活用したいと思う。
『ソーシャル・ネットワーク』のネタバレを含みます!!
サイテーな天才
マーク・ザッカーバーグは、今作では非社交的で不器用な人間として描かれる。
それを表すのは、彼女のエリカとの噛み合っていない映画冒頭のシーンだ。
マーク「天才的IQが多いのは米国より中国だ。」
エリカ「ウソだ。」
マーク「本当だ。」
エリカ「根拠は?」
マーク「人口も多いしね。でも、どうすれば学力試験、満点だらけの中で目立てるか。」
エリカ「中国にも試験が?」
マーク「ないよ。僕の話をしてる。」
エリカ「あなた、満点?」
凄い巧妙で自然な台詞回しで、エリカとの破局に至る流れでマークの性格を我々に見せている。
そして、先ほどの台詞でもだが、マークは承認欲求が強い人物として描かれる。
「選ばれた人間しか入れない」ファイナルクラブに入ることに固執ていることから分かる通り、マークは社会的に認められたいと思っている。
その承認欲求は、日本以上の階級社会であるハーバード大学にいるからこそ生じるものだ。
しかし、マークはその承認欲求を満たすために相手を見下すことしかできない。
マークはエリカに、ファイナルクラブに入ったら「君とは別世界の人に」会わせてやると言うものの、その言葉がエリカの気に障って、二人は破局してしまう。
ハーバード大学に通うマークが、エリカが通うボストン大学が学力的を格下だと見なし、エリカのことを人間的に見下していることが分かる。
破局に繋がるたった5分間のこのシーンで、マーク・ザッカーバーグの人間性についてこれだけ分かるのは、アーロン・ソーキン氏の見事な脚本があってこそだ。
エリカ「オタクだからモテないと思ってるでしょ。言っておくけどそれは大間違い。性格がサイテーだからよ。」
今では全世界に普及し20億人以上のユーザーを誇るFacebookの創設者マーク・ザッカーバーグ氏を、本人が未だ生きているのにもかかわらず、「サイテー」なアンチヒーローとして描いていることに私は冒頭5分で既に驚いてしまった。
だが、マークのぎこちなさや不器用さが相俟って、我々はマークのことが嫌いになれない。
マークの「サイテー」な一面は、ファイナルクラブに所属していることがステータスとなるアメリカの階級社会で生き抜くために演じているのだとも言えるだろう。
マークが本当は「サイテー」なやつとして振舞っているだけなのだと、弁護士のマリリンも今作の最後で言う。
私の中では「伝記映画=その人の人生を美化して称賛する」というイメージが強かったが、このイメージが全て覆された。
社会の不条理
今作は、マークに対して起こされた訴訟を中心にストーリーが進む。
そのうちの一つがウィンクルボス兄弟が起こした訴訟だが、その訴訟自体が起きてしまったのは、マークが体現した「社会の不条理」が原因だ。
ウィンクルボス兄弟との訴訟は、マークの自己中心的な態度のせいで起きる。
当初、ウィンクルボス兄弟らはマークを信頼して「ハーバード・コネクション」の開発を任せたものの、そのアイディアをマークに盗まれる。
そしてそのアイディアを発展させた結果、マークはFacebookを開発した。
マークは「ハーバード・コネクション」を出会い系のようだと揶揄し、クールなサイトを作りたいという自身の夢を実現するためにアイディアを借りたのだと主張する。
しかし結局これはマークの自己中心的な態度にすぎない。
努力家で負けず嫌いのウィンクルボス兄弟からしたら、マークを信用して仕事を託した自分たちは完全に被害者だ。
ここでもまた、マークの「サイテー」な部分が見えてくる。
他人を見下すことで自分を認めさせようとするアンチヒーローのマーク・ザッカーバーグが、競争社会にはつきものである「不条理」を体現したのだ。
伝記映画で主人公を「裏切り者」として描いたのは、階級社会や競争社会への批判とも取れる。
多くのフィクションな部分がある今作だが、実はこの訴訟に関する部分は実話だったというのも面白い。
(実物の) マーク・ザッカーバーグ氏本人は映画に対しては否定的なスタンスにあるものの、ウィンクルボス兄弟たちは割と好意的な立場にいて、自分自身たちの描かれ方に納得しているのも頷ける。
唯一の友達
非社交的なマークと親しくする唯一の人物として描かれているのは、エドゥアルド・サベリンだ。
エドゥアルドが書いたアルゴリズムで「フェイスマッシュ」を立ち上げ、その後もFacebookのCFOとしてマークのそばでサイトの成長を支え続けてきた。
しかし、広告収益で利益を得ようとしていたエドゥアルドが苦戦していたところ、ショーン・パーカーが新たな契約会社との契約を成立させることに成功。
エドゥアルドはマークのことを「唯一の友達」だと思っていたが、劇中のマークとエドゥアルドのやり取りを観ていると、マークが一方的にエドゥアルドを利用しているようにも思える。
「Facebook」という夢を成し遂げるための手段として、エドゥアルドのアルゴリズムや資金力を利用していた。
では、なぜマークはエドゥアルドを切り捨ててショーンと手を組んだのか?
エドゥアルドの、広告収益を活用するアイディアに同調していなかったからというのも恐らくある。
また、エドゥアルドがCFOであるのにもかかわらず交際ステータスの変え方すら分からなかったのも、エドゥアルドが利益を上げることで頭がいっぱいだったことも見て取れる。
しかし、エドゥアルドが、マークが加入を切望していた「フェニックス」に招待されたことが大きな理由だと考える。
そんなエドゥアルドを羨望していたからこそ、エドゥアルドとは距離を置いてカリフォルニアでショーンと手を組んでしまったのではないか。
当然、先述しているように、他人を見下すことで自分を認めさせようとする「サイテー」な性格があるからこそこのようなことをしてしまったのだろう。
そして最終的にマークはエドゥアルドを騙し、エドゥアルドは持ち株比率を0.03%まで希薄化される。
そして仕舞いには、マークはエドゥアルドに訴えられてしまう。
ここでは、競争社会によって滅茶苦茶にされたマークとエドゥアルドの交友関係が描かれている。
階級社会によって芽生えたエドゥアルドへの羨望により、マークは唯一親身にしてくれ事業を最初から支えてくれた友人を切り捨てることになった。
そして、最終的にはその「親友」に訴訟を起こされることになる。
世界一のSNSプラットフォームを開発して、何億人もの人を繋げることに成功したマークが、最後には一人も友人がいない孤独な人物になってしまったのは皮肉なことだ。
デジタル社会の構築
Facebookは、ユーザーに大学生活を全てネットに掲載させることによって成り立つサイトだ。
写真やプロフィールは勿論のこと、自分自身の交際ステータスすらを曝け出す場となった。
そう考えると、Facebookそのものも、創業者と同様、承認欲求ありきのサイトなのかもしれない。
そして、Facebookの前身ともなった「フェイスマッシュ」について触れたい。
「フェイスマッシュ」は、ハーバード大学の女学生の写真を並べて、二人の顔写真を比べて採点するサイトだ。
マークが「フェイスマッシュ」を開発したことも勿論「サイテー」なことだ。
ハーバード大学のデータベースに侵入して個人情報を流出させているからだけでなく、女学生たちをネット上の公の場で性的対象にしているからだ。
しかし、皮肉なことに、同時進行で行われているファイナルクラブ「フェニックス」でも女性の性的対象化が同様に起きている。
しかも、ファイナルクラブの方では、女性たちはハーバード大学の男性たちに接触するために、自分で自分自身を性的対象化している。
バスで大量の女性たちがまるで家畜のように運ばれてくる画が、マークの「動物と女の子を比べる」という台詞と繋がっているのも面白い。
結局、マークがやっていることとファイナルクラブがやっていることの違いは、強制的であるか自発的であるかという点のみで、やっていることはほぼほぼ変わらない。
デジタル社会の発達により、性的対象化が発生する場がネット上へと移行してしまったのだ。
「フェイスマッシュ」を開発するマークのシーンと、ファイナルクラブのシーンが交互に映し出されていたことに監督の強いこだわりを感じた。
たった一人に認められるために
「承認欲求」と今まで言ってきたが、結局マークは、たった一人の人間、つまり元恋人のエリカに認めてもらうためにウィンクルボス兄弟やエドゥアルドを裏切ってきたのだろう。
Facebookが有名になってきた頃に、エリカに声をかけてた場面がそれを象徴する。
その際、マークは以前エリカを侮辱したことを謝るのではなく、Facebookの自慢をし始める。
それを嘲笑うエリカに腹が立ち、マークはエドゥアルドに「Facebookの更なる拡大」を要求する。
しかし、親友のエドゥアルドに訴訟を起こされて自分の「サイテー」な一面が招いた孤独に気づいたマークは、映画の最後で初めて自分から繋がろうとする。
それが、エリカへのFacebookの友達申請だ。
大勢の人たちの繋がりを築いていたSNSの創設者が、承認欲求のあまり身の回りの繋がりを蔑ろにしたために孤独になった。
そんな孤独から脱却しようと初めて自発的に繋がろうとしてエリカに友達申請したのが非常に綺麗な構図だ。
エリカは実在しない人物なのでここの部分もフィクションだが、「繋がり」を描いた今作のこれ以上良い締め方はなかったのではなかろうか。
結論
恐らく、マーク・ザッカーバーグ氏からサクセスストーリーを作ることは容易だ。
今となっては世界的に有名なSNSを創設した人なのだからビジネス面でいうと間違いなく彼は成功していて、この映画でもそのような面はきちんと描かれていた。
我々はこの映画を観て、勿論「Facebookすげぇ!」「マーク・ザッカーバーグさんすげぇ!」ってなると思う。
今すぐパソコンを取り出して、ネットビジネスで億万長者になるというアメリカンドリームを追いたくなる人もいろうだろう。
しかし、今作から受け取れるものがそこだけでないのが凄い。
マーク・ザッカーバーグを敢えてアンチヒーローとして描いたことにより、我々は「サイテー」な人物としてマークを見ていた。
しかし、現代の階級社会や競争社会によって、彼は自身の承認欲求に踊らされてしまう。
その欲求を満たすために彼は繋がりを蔑ろにして、大勢の人たちを見下したり裏切ってしまい、最終的には孤独になってしまった。
そう考えると、マークはFacebookによって大勢の繋がりを築いた人でありながら、自分自身は「繋がれなかった人」なのかもしれない。
そして最後に自分の間違いに気づき、自分からエリカと繋がろうとする。
マーク・ザッカーバーグという誰かと繋がりたかった人が、偉業を成し遂げながら、「繋がり」の大切さに気付く。
非常に素敵な、一人の人間の成長を描いた物語になっていると感じる。
もちろん、映画で魅せるために作られた要素が多い。
なんといっても、Facebook立ち上げのきっかけとなったエリカの存在自体がフィクションだ。
だが、フィンチャー監督の描きたかった現代の「階層社会」、「競争社会」、「不条理」、「孤独」などの多くのテーマを描くうえで必要不可欠な改変だったと感じる。
マーク・ザッカーバーグ氏本人がこの「誇張されたフィクション」に不満を抱くのは仕方がないことなのかもしれない。
しかし、この映画があまりにも各テーマをしっかりと描いてくれたので、一視聴者としては本当に非の打ちどころのない映画に思えた。
私の伝記映画に対する偏見を大きく変えてくれた一本だ。
▼他の記事▼